思うまま

2025年3月11日(火) 東日本大震災から14年。

 今日から福生市議会では予特(予算審査特別委員会)が始まりましたが、14年前の今日は予特の最終日でした。午後2時46分、ちょうど総括質疑が始まるところで大きな揺れを感じました。建物は何ともありませんでしたが、むき出しのエアコン室内機が大きく揺れ真下にいた私たちは思わず立ち上がったのを覚えています。小野沢委員長の提案で総括質疑は文書で行うこととし採決され散会しました。
 議会応接室でテレビを観てまるで映画のシーンを見ているような光景に唖然としました。車はもとより船や家が流されていきます。多くの住民も流されたのではないのだろうか、と心配になりました。市役所から帰る途中、五日市線の踏み切りが降りたままになり迂回して帰ったのも覚えています。
 今日の朝日新聞夕刊に【東日本大震災から14年】「苦しくても 傷ついても 希望が 愛が あると信じて」の見出しとともに「生きてください」というタイトルの詩が載っていました。写真をクリックすると大きな絵が表示されますので読んでください。
 書かれたのは石巻市職員で学芸員の高橋広子さんで自らの体験や被災者の証言をもとに書き上げたものとのことです。当時、学校で避難の手助けをしていた母親が「先に逃げなさい」と言われ、迷いながらもその場を任せて子どもたちを追ったところ、「手伝いを放って逃げた人がいる」とのうわさが立ち、外に出られなくなることがあった。震災で生き延び、苦しみ続ける。苦しみの先に希望を見いだす。そんな被災者が抱える複雑な気持ちを知ってほしい。と。詩および記事を読んで心に響きました。
 大船渡市の山火事でも道一つ隔てて丸焼けの家と火災を免れた家が並んでいます。家が無事だった住民も素直に喜べないのではないでしょうか。
 話しは飛びますが、福島原子力発電所の事故に関して当時の東京電力の経営者の無罪が言い渡されました。個人的にはこの判決に不満を感じます。事故発生の前に十数メートルの津波が予測されると言われ、何もしなかった経営陣に疑問を感じます。せめて予備の発電機を高台に設置していれば大爆発せずに済んだのではないでしょうか(専門的な見解は分かりませんが)。外部電源を接続しようとしたら繋がらなかったということもあったように記憶しています。
 過去の記録を見ると、大きな津波が続きます。
・明治三陸地震津波(明治29(1896)年6月15日)
 マグニチュード8.25、津波の高さ38.2m、死者21,959名
・昭和三陸沖地震(昭和8(1933)年3月3日)
 マグニチュード8.1、津波の高さ28.7m、死者・不明者3,64名
・東日本大震災(平成23(2011)年3月11日)
 マグニチュード9.0、津波の高さ14.8m、死者・不明者22,500名
明治以前にも、貞観11(868)年7月13日、慶長16(1611)年12月2日、延宝5(1677)年4月13日、寛政5(1793)年2月17日、安政3(1856)年8月23日に大きな津波に襲われたそうです。現存している資料から判断すると、平均で46年に一度津波が発生していた、とのことです。
 この事故の影響として、復旧にかかる費用は電気料金に上乗せされる(間違っているかもしれませんが)、復興特別税として所得税に25年間2.1%分を上乗せ(住民税分は23年度分まで年1000円が加算、ところが「森林環境税」として徴収し続けています)されます。
 さらにエネルギー政策が改定され、原発回帰が議論されています。発電コストは安い、CO2は排出しないなどいいことずくめですが、使用後の核燃料の処理や事故後の処理もおぼつかない中で推進するのもいかがなものかと思います。
 そういう意味でも東電幹部の責任は重いと観じています。